今行きたいのは清浄な地、北極圏

――この作品のために1年のうちの多くの時間を海外で過ごしていた以前と比べて、現在はその時間をどのように過ごされているのでしょうか。

山口 家にいる時間が増えて、ゆっくりするのも悪くないなと思えました。それまではついつい海の向こうに目がいきがちでしたけれど、異国というものは自分自身の故郷の写し鏡で、お互い行き交いしてきた文化の積層の記録が全ての文化にそれぞれ残っているので、それは結局、自分に帰ってくることでもあるんです。

それでも、コロナ禍で飛行機に乗れず、鎖国状態的な状況になると、あと回しにしていた、まだ行ったことのない日本のいろんな地方に“行ってみようか……”ぐらいの気持ちで行ってみたら、ものすごく発見があって。『こんな美しい景色を50数年知らずにいたのか……』と、いかに自分の故郷を知らなかったかという衝撃でした。

美味しいもの、文化など、日本にはまだまだ知るべきことが溢れています。東京集中型でなく、地方の自然、風土、地域の個性を活かそうとトライする若い人たちの動きが出てきて、ユニークな面白い才能を持った方々が活動しているのに出会えたりすると、日本も捨てたもんじゃない、頼もしいなと希望が湧いてきます。

――本を読むと、山口さんの言葉によって、遠い世界のことに親近感を持って感じられますし、日本にも興味が湧いてきます。山口さんにとって、世界は狭いですか。広いですか。

山口 果てしなく広いに決まっているじゃないですか! 何百回生まれ変わったとしても、地球という世界は知り尽くせません。だから面白いんです。地球という星は面白い生命体です。知ったつもりになったとしても、また変化をし続けているから、だいたい制覇したなと思った頃にはもう全てが次の再生状態に入って、新しいものが生まれていますから(笑)。

――今、行きたい場所はどこですか。

山口 籠るという閉鎖的な空間にいた跳ね返しかもしれないですけど、心と体が求めているのはとことん清浄な地。思い浮かぶのは北極圏です。空気の清らかさ、冷たい氷点下何十度という過酷な状況ではあるけれど、人間が侵していない地球はこんなに美しいんだと思わせてくれた、あの清らかな世界。

油断したら凍死してしまう自然の厳しさ。お酒を飲んでその辺に寝転んでいたら、明日の朝は命はない。死が隣り合わせで身近で、でも自然の懐の大きさ、優しさ、命、美しさが溢れています。北の思い出は、雪と氷の冷たさというよりは熱くたぎる命の血のイメージ。そんな思い出です。

例えば、北極圏のサーミという北方先住民や、アメリカ大陸のイヌイットの文化。過酷な地に生きる彼らは限られた資源、自然が与えてくれた獲物をハンティングし、アザラシ、トナカイといった命をいただいて生き抜いていかなければいかなかった。

命の重さを感じながら感謝して、毛皮、骨、筋、余すことなく使い切る覚悟で、生かし尽くす知恵を持っています。サバイバルしてきた文化の歴史は衝撃的で感動しました。もう一度、あの地に行きたいと思います。

――サーミの回の章は、読むと旅の必需品について考えさせられます。山口さんは旅の際、どれだけコンパクトにして、何を持って行かれるのですか。旅支度のコツを教えてください。

山口 警戒心が強くて、何かあったらどうしようと考えるので、ものすごく荷物が大きくなってしまいがちなんです。だから、旅を始めた頃はとても重いスーツケースを持って出ていました。旅を続けることで本当に必要なものは何かということを身を持って学び、少し身軽になってきましたが、何年もかかりました。

北方民族の方々は自然の動物たちをハンティングした素材、毛皮や革などが壮大な威力を秘めていることをよく知っていて、毛のどの部分をどう活かすか、生きる知恵があります。肌の触れる内部にはこの動物の毛、外側はこれ、カヤックに乗る時は防水仕様のあるこれ、雪の上の歩く時はこの毛皮の摩擦を利用したこの靴とか。全て自然からいただいた知恵を学んで活かしているんです。

今のアウトドアメーカーの衣料は進歩していて、そういう自然から教えてもらった知恵を生かしながらテクノロジーと合体させ、とてもいいものができていて感動します。だから、旅する時は必ずアウトドアメーカーをちょっとリサーチして、最先端のできるだけ薄くて軽くて小さくなる、1日に春夏秋冬が全部あるくらいの過酷な温度変化のところに行っても、ひとつで済むくらいのものを選んで荷物を減らします。

ただ現地のものは機能美だけじゃなく、その風土に育まれた美的センス、色彩のおしゃれ感覚が半端じゃないんです。裁縫の技術も素晴らしい。なぜかといえば、一縫いをおろそかにすることで、その穴から入った氷や雪で凍傷になったり、命を落とすところにまで行ってしまう。もし、たったひとつの綻びで狩猟に出る一家の主人に何かあったら、一家全員、食べていくことができない。小さな穴ひとつが命に関わる厳しい環境の中で生きているんです。

ファッションデザイナーたちは、よく民族衣裳に影響を受けていますよね。都会人がグレーのビルディングの中で考えても生まれない豊かなアートセンス。そういうものも含めて、刺激的です。だから、行く時の荷物は小さくして、帰りに現地でしか買えないものを一期一会と思って、買って帰れるスーツケースの空白を作っておきます。