過信は時として自分を大きく支えてくれる

すぐ横で同級生たちが練習に参加しているのを横目にボール拾い。そうなると、かなり焦りそうなものですが、僕はまったくといっていいほど焦りを感じていませんでした。

あまりにも地味なボール拾いという雑用をやらされているメンバーの中で、焦りもせず、腐りもせずに毎日過ごせていたのは、たぶん僕だけだったと思います。

なぜなら自信があったから。

最初にピッチングを見てもらったとき、監督が僕をすごく褒めてくれたのです。とても高い評価をもらいました。僕にはそれが大きな自信になったのです。

緊張していたのもあって、そのとき監督が、なんという言葉をかけてくれたかまでは憶えていません。

「いい投げ方だ」だったか「その調子でやっていれば大丈夫だ」だったか定かではありませんが、とにかく過去に5回も甲子園に出場し、プロ野球選手を何人も育てた卯瀧監督が「いい」と言ってくれた。だったら、その言葉を信じてやっていれば間違いない――そう思っていたのです。

▲過信は時として自分を大きく支えてくれる イメージ:PIXTA

それは、監督への信用であり、転じて自分への信用でもありました。

監督が僕を気にかけ、買ってくれているのだから、いまはボール拾い専門でも焦ることはない。こういうトレーニングが必要だと判断してやらせているんだろうから、それを懸命にやっていれば大丈夫。いまはどれだけ同級生に差をつけられても、いつか必ず追いつけるという気持ちになれたのです。

それは、ある意味で「過信」だったのかもしれません。のちに僕も、マウンド上で自分を過信したせいで痛い目にあったりしました。過信はときに間違いを引き起こすものです。

しかし、勘違いに近いような根拠のない自信のおかげで、地味で地道な努力に耐えられることもあります。自分を支える「根拠」になってくれるのであれば、自信ほどパワフルなものはありません。たとえそれが「過信」に近いものだったとしても、あながち悪いものと決めつけられないのではないかと思います。

それと同時に、子供たちや若い人を指導する立場の人には、できるだけ自信を持たせる言葉をかけてあげてほしいと思います。それによって地味な努力をやり抜ける子になるかもしれませんし、その子の可能性を大きく広げるかもしれないからです。