18世紀からはじまるロシアの対日政策
次に日本とロシアの関係もまた、幕末から考えていく必要があります。
当時は、欧米列強が領土の拡大を図る帝国主義の時代です。ロシア帝国は東アジア地域で南下を開始していました。
エカチェリーナ2世治下の1792年に、アダム・ラクスマンを日本へ派遣して以来、ロシア帝国は通商(開国)を要求し続けますが、江戸幕府は交渉を拒否し続けます。アレクサンドル1世の時代になって、開国に応じない日本に対して報復するかたちで、1806~07年にロシア人の部隊が、樺太や択捉(えとろふ)の日本人居留地を襲撃し略奪しました。時の元号をとって「文化露寇」と呼ばれています。
帝政ロシア(ロマノフ王朝)は、ヨーロッパの水準からすれば遅れた国でした。1721年に初代皇帝の座についたピョートル大帝以来の最大の課題は、いかにヨーロッパに追いつくか、ということでした。ただし、ただ単に西欧化するというのは受け入れられません。「西欧化」と「スラブ主義」をどう結びつけるか――ということを、現在のプーチン大統領も未だに課題としているのがロシアという国です。
スラブ主義とは、19世紀半ばの民族主義的な社会思想です。西欧主義に反対し、古来の農村共同体(ミール)を基盤とする、独自の道があるとの主張です。
1855年に日露和親条約が結ばれ、明治に入ってからの1875年に日本は、ロシアと「樺太・千島交換条約」を結びます。樺太を譲り渡す代わりに、日本は得撫(うるっぷ)島以北の千島島を領有しました。
南下政策を進めるロシア帝国の脅威に対抗しなければならず、朝鮮半島は日本の国防の生命線となりました。どうしても朝鮮を近代化させる必要があり、その朝鮮の独立を巡って清国との間に起こったのが、1894年の日清戦争でした。
日清戦争が日本の勝利に終わり、清国の全権大使・李鴻章との間に「下関条約」と呼ばれる講和条約が結ばれました。1895年のことです。これにロシアがクレームをつけてきます。
下関条約によって、遼東半島・台湾・澎湖諸島などが日本に割譲されましたが、これに対してロシアが、フランスとドイツに呼びかけ、いわゆる三国干渉を仕掛けてきます。結果、遼東半島を清に返還させられ、遼東半島は後にロシアが清から租借します。
遼東半島は朝鮮半島のわずかに西に位置しますから、そこに駐屯することになるロシアは、日本にとって大きな軍事的脅威になります。臥薪嘗胆でロシアに立ち向かっていき、ロシアに勝利したというのが日露戦争の概略です。
整理すると「三国干渉の屈辱を晴らし、ロシアの南下を食い止めるための戦い」が、多くの日本人が考えている日露戦争です。
しかし国際社会は、日露戦争にまったく違う解釈をしています。
「日露戦争の」隠された目的
国際社会は、日露戦争を「ロシア帝国から迫害されていたユダヤ系共産主義者が、ロシア皇帝を倒し、革命を起こすための戦いの布石」と考えています。ロシア革命は日露戦争の13年後、1917年に起こります。共産党独裁による、社会主義国家・ソビエト連邦を生むことになる革命でした。
注目すべきは、日本側の資金源です。日露戦争の戦費を用立てたのは誰か――。正解は、国際銀行クーン・ローブ商会のヤコブ・シフという、アメリカのユダヤ系銀行家です。
ヤコブ・シフが日本の国債を購入したことで、戦費を調達できた日本は日露戦争に挑みました。国債購入資金は、シフの取りまとめにより国際金融ネットワークで集められたものです。
アメリカが日本を支援したのではありません。「国家」という枠にとらわれるのはやめましょう。これは昔も今も、国際情勢を正しく見ようとするときの重要ポイントです。
正確に言えば、アメリカという国が支援したのではなく「アメリカの銀行を牛耳っていた、ユダヤ系国際金融勢力が日本を支援した」ということです。
国際金融資本家たちは、ロシア皇帝を倒すために資金を出して、日本を支援したのです。それが国際社会から見た日露戦争です。
そう、国際金融勢力は共産革命に手を貸したのです。これが理解してもらいたい一番のポイントです。現在の「国際ニュース」を読むためには、この知見が必要不可欠だからです。
実は、国際金融勢力と共産主義勢力は、同じ思想を持っているのです。二つの勢力に共通するのは「国境をなくし、世界を統一する」という思想です。
1917年のロシア革命を基点にすると、分かりやすくなります。1905年に終結した日露戦争はロシア革命の前哨戦でした。1914年に始まる第一次大戦は、ロシア革命を完成させるための最後の戦いでした。
日露戦争は、ロシア帝国から迫害されていたユダヤ系左翼革命勢力が、ロシア皇帝を倒して共産主義政権を樹立するための戦いの一環だったのです。