江戸では当たり前だった「割ってくんな」

いっぽう、戯作『東海探語』(三芳埜山人:著/文政4年)に、新石場の女郎屋が描かれている。

女中頭のお登勢が、若い者の定吉に指示するーー

登「これさ、定どん、定どん」

定「おい、何だ、何だ」

登「表座敷のお三人がいま、羽織衆がひけたから、中六へお床をまわしてくんな。そして、そのついでに、吉野屋のおひとりも角の八畳へ、兵庫屋のお客と割ってくんな」

定「おっと、承知、承知」

――と、女が実権を握り、男にてきぱきと命令している様子がわかる。

お登勢の指示内容を、わかりやすく説明しよう。

表座敷三人連れの客は、もう宴会が終わり、羽織(芸者)が帰ったので、中六(中の六畳間)に寝床を用意しろ。遊女と床入りになる。

船宿の吉野屋が案内してきた客は、角の八畳に案内して、やはり寝床を用意し、船宿の兵庫屋が案内してきた客と割床にしろ。それぞれ、遊女と床入りになる。

なお、「割ってくんな」は、「割床にしろ」という意味。

割床とは、相部屋である。

深川は縦横に掘割が走っていたので、舟が便利だった。そのため、猪牙舟や屋根舟に乗ってやってくる男が多い。舟は現代のタクシーと同じだった。

それにしても、新石場の歓楽街としてのにぎわいがわかろう。

図3『三体志』(歌川国貞/文政12年) 国際日本文化研究センター:蔵

図3は、古石場の光景である。

右の、楊枝を使っている女は遊女。

三味線を弾いている女は羽織(芸者)。

剽軽な踊りを披露しているのは太夫(幇間)。

客の男は、太夫の踊りを見ながら、上機嫌のようだ。

宴席が終わり、羽織と太夫が引き取ると、客の男と遊女は別室で床入りする。

なお、老中水野忠邦が天保十二年(1841年)から断行した天保の改革により、石場の岡場所はすべて取り払われた。

『江戸の男の歓楽街』は次回6/24(水)更新予定です、お楽しみに!

【用語解説】
・割床(わりどこ)
部屋に数組の寝床を敷き、あいだを屏風で区切る方式。視覚はさえぎられるが、物音も声も筒抜けだった。岡場所の女郎屋では、割床は常識だった。高級とされる吉原の妓楼でも、客が込み合ったとき、割床になるのは珍しいことではなかった。
・羽織、太夫
深川では、芸者を羽織、幇間を太夫と呼んだ。深川独特の呼称である。

 〇今に残る石場の痕跡

牡丹2丁目
付近は小規模な飲食店が点在し、かつての盛り場の名残がある(編集部撮影)
石島橋
門前仲町駅から出て、この橋を越えるとかつての石場のエリアに入る(編集部撮影)